人民中国杯日语国际翻译大赛二等奖作品 (日语2006班 卢羿静)

发布时间:2023-03-10

第五届人民中国杯日语国际翻译(笔译)大赛

二等奖

组别:本科组

项目:日译汉

日语2006卢羿静


近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。

近日高唱自我与自觉的人极多,用来标榜行为举止略为以自我为中心也无伤大雅。但这其中存在非常奇怪的现象。这些人在不断强调尊重自己的自我的同时,却丝毫不承认他人的自我。确信不疑的是,假如具有公正的眼光,拥有正义的观点,那么为了追求自我幸福而发展自己的个性的同时,也要将这样的自由给予他人。我们在没有正当理由的情况下,是绝不能为了实现自己的幸福妨碍他人自由发展他的个性的。为何在这里我会使用“妨碍”这个字眼呢?究其原因,是因为你们之中的大多数人在未来都可能站在妨碍他人的立场上。你们之中有能够动用权利的人,当然能够运用财力的人就更多了。


元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。私がこうやって、高い壇の上からあなた方を見下して、一時間なり二時間なり私の云う事を静粛に聴いていただく権利を保留する以上、私の方でもあなた方を静粛にさせるだけの説を述べなければすまないはずだと思います。よし平凡な講演をするにしても、私の態度なり様子なりが、あなたがたをして礼を正さしむるだけの立派さをもっていなければならんはずのものであります。ただ私はお客である、あなたがたは主人である、だからおとなしくしなくてはならない、とこう云おうとすれば云われない事もないでしょうが、それは上面の礼式にとどまる事で、精神には何の関係もない云わば因襲といったようなものですから、てんで議論にはならないのです。別の例を挙げてみますと、あなたがたは教場で時々先生から叱られる事があるでしょう。しかし叱りっ放しの先生がもし世の中にあるとすれば、その先生は無論授業をする資格のない人です。叱る代りには骨を折って教えてくれるにきまっています。叱る権利をもつ先生はすなわち教える義務をももっているはずなのですから。先生は規律をただすため、秩序を保つために与えられた権利を十分に使うでしょう。その代りその権利と引き離す事のできない義務も尽くさなければ、教師の職を勤めおおせる訳に行きますまい。

实话说,这世上根本没有不附带义务的权利。像我现在这样,站在高台上俯视着大家,既然我有让你们安安静静听我讲一两个小时的权利,那么相应的,我就必须有让你们安安静静听下去的内容。就算是很平常的演讲,我的态度、我的姿态,都需要足够出色才能使大家保持礼貌周到。仅仅因为我是客人,你们是主人,所以你们必须中规中矩地听我讲话,如此说来也未尝不可。然而这仅仅是表面上的礼节,与精神没有任何关系,及所谓的旧习,因此根本没有讨论的必要。举个例子:你们在课堂上可能经常挨老师的训斥。但是如果世界上有训完就了事的老师,那么这个老师必然是没有资格授课的。训斥的代价是需要尽心尽力孜孜不倦地教育学生。因为拥有斥责权利的老师必然有义务教好学生。老师为了整顿纪律维持秩序,也要充分行使教师之责赋予他的权利。反之,如果不做到恪尽职守,不尽到如影随形的义务与权力,也就无法胜任教职。


金力についても同じ事であります。私の考えによると、責任を解しない金力家は、世の中にあってならないものなのです。その訳を一口にお話しするとこうなります。金銭というものは至極重宝なもので、何へでも自由自在に融通が利く。たとえば今私がここで、相場をして十万円儲けたとすると、その十万円で家屋を立てる事もできるし、書籍を買う事もできるし、または花柳社界を賑わす事もできるし、つまりどんな形にでも変って行く事ができます。そのうちでも人間の精神を買う手段に使用できるのだから恐ろしいではありませんか。すなわちそれをふりまいて、人間の徳義心を買い占める、すなわちその人の魂を堕落させる道具とするのです。相場で儲けた金が徳義的倫理的に大きな威力をもって働き得るとすれば、どうしても不都合な応用と云わなければならないかと思われます。思われるのですけれども、実際その通りに金が活動する以上は致し方がない。ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人心の腐敗を防ぐ道はなくなってしまうのです。それで私は金力には必ず責任がついて廻らなければならないといいたくなります。自分は今これだけの富の所有者であるが、それをこういう方面にこう使えば、こういう結果になるし、ああいう社会にああ用いればああいう影響あると呑み込むだけの見識を養成するばかりでなく、その見識に応じて、責任をもってわが富を所置しなければ、世の中にすまないと云うのです。いな自分自身にもすむまいというのです。

关于金钱方面也是同理。根据我的观念,不理解责任是什么含义的 “钱力家”,这世界是不应该存在这种人的。其中的原因用一句话表述就是:金钱是非常重要的东西,什么都能够自由自在地通融。比如,我现在投机赚了十万日元,我可以用这十万日元建造住宅,也能够购买书籍,或者也可以到花柳界好好逍遥一番,总而言之,这可以变出各种花样。其中也有能用于收买人心的用法,这难道不可怕吗?也就是说,大量的金钱,可以收买人类的良心,也就是说明金钱成为了使人灵魂堕落的工具。投机赚来的钱如果对伦理道德产生巨大威力进而发挥作用产生影响,那不得不说是金钱的不正当使用了。虽然认为是不当的,但金钱就是被这么使用着,所以也是无可奈何的事。只能将希望寄托于有钱的人有相当水平的道德与良心,不用金钱做出损害道德的事情,除此以外,不存在防止人心腐败的途径。所以我想说,金钱必须加上责任的枷锁才行。比如我现在有这么多的财富,如果这笔财富用于这个方面,就会出现这种结果,在那种社会中,用于那方面就会产生那种影响,首先至少必须养成认可的意识,不仅如此,还要配合这种意识,负责地处理自己的财富,否则就有负于天下,不,也是有愧于己身。


 今までの論旨をかい摘まんでみると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。

总结一下目前为止的观点,那就是:第一,如果想要达成发展自己个性的目的,那就必须同时尊重他人的个性。第二,要想使用属于自己的权利,那么也就必须记住与之相伴的义务。第三,想要显示自己的财力,那么也需要重视如影随形的责任。言而总之,最终可以归结到这三条上来。


これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍云い換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈するに至るのです。そうしてこの三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います

假如将这些问题换言之,那便是:如果不是在伦理道德上具有一定修养的人,那就没有发展个性的价值,没有使用权利的价值,而且也没有使用财力的价值。再换言之,那就是,为了自由享受这三者,那就必须要接受这三者背后存在的受人格支配的实质。如果没有人格的人想盲目地发展个性,那就会妨碍他人,如果使用权力,必然就会滥用,如果动用金钱,必然导致社会腐败。以至于呈现出相当危险的现象。而这三者,是你们未来最容易接触到的东西,所以我认为,你们无论如何都要成为有高尚人格的体面人才行。